
■人生の交差点で考える「いつか死ぬ」ということ
最近、ふとした瞬間に「人はいつか死ぬ」という、あまりにも当たり前で、あまりにも重い事実に直面することがあります。
会社のデスクでぼんやりとコーヒーを飲んでいる時。子供たちの寝顔を見つめている時。妻と他愛ない会話をしている時。
人生の「折り返し地点」という言葉が現実味を帯びてくると、残された時間、つまり有限性を意識せざるを得ません。独身でバリバリ働いていた若い頃は、時間なんて無限にあるように感じていました。多少の寄り道も、失敗も、大したことじゃない。そう思っていました。
でも、今は違う。
私には家族がいて、果たすべき一定の責任がある。そんな中で「このままのスピードでいいのか?」「本当にやりたいことはできているのか?」という焦りが、時折、胸をざわつかせます。
■「生き急ぐ」心情の裏側にあるもの
時々、ものすごい勢いでキャリアを築いたり、趣味に没頭したり、目まぐるしく自己投資を続ける人を見て、「生き急いでいるな」と感じることがあります。それは、少し滑稽に見えることもあるかもしれません。
しかし、私もその気持ちが痛いほどわかるのです。
なぜなら、その衝動の根底には「いつか終わる」という絶望ではなく、「終わる前に全てをやり切りたい」という、純粋で切実な生命力があるからです。
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子供が「パパ」と呼んでくれる時間は、あと何年あるだろう?
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健康な体で旅ができるのは、あと何回だろう?
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この会社で自分の理想とする仕事を全うできるだろうか?
時間は直線的に進むだけです。過去に戻るボタンは無い。だからこそ、今この瞬間に、何かを掴み取っておかなければ、二度とチャンスは来ないのではないか。そう考えると、立ち止まってはいられない。アクセルを踏み込む気持ちは、理屈ではなく、もはや本能に近いものなのかもしれません
■有限を意識すること
「いつか死ぬ」という事実は、一見ネガティブなものですが、私にとっては人生を鮮明にする**「フィルター」**でもあります。
このフィルターを通すと、本当に大切にするべきものがくっきり見えてくる。
例えば、週末の家族とのたった数時間の団欒。仕事で手応えを感じた瞬間。昔の友人と交わす、くだらないけれど深い会話。これらは、無限の時間の中では「いつかまた」と後回しにされてしまうかもしれない些細な出来事です。
しかし、「有限」という制約があるからこそ、その一つ一つがかけがえのない、輝きを放つ瞬間になる。
生き急ぐことは、人生の密度を高める行為だとも言えます。それは、がむしゃらに働くことだけを意味しません。
私にとっての「生き急ぐ」は、「今日という一日を、意識的に、最高の状態で生きる」こと。子供たちと本気で笑い合い、妻の話に真剣に耳を傾け、仕事では後悔のないアウトプットを出す。
いつか死ぬ。それは変えられない事実です。
だからこそ、残りの人生で、何を残し、何を伝え、誰と時間を分かち合うのか。この問いへの答えを出すために、私たちは少しだけ、立ち止まらずに歩み続けるのでしょう。